プロフィール
幼年期
1928年アルゼンチン第二の都市ロサリオで誕生する。父はエドゥアルド・ラファエル・エルネスト・ゲバラ・リンチ、母はセリア・デ・ラ・セルナ・イ・ジョサ。1824年に
シモン・ボリーバル、
アントニオ・ホセ・デ・スクレらのラテンアメリカ解放軍と
アヤクーチョで戦ったペルー副王、ホセ・デ・ラ・セルナの末裔であり、経済的には恵まれた家庭であった。両親は保守的な慣習にとらわれない比較的
リベラル(liberal)な思想の持ち主であった(母のセリアは
無神論者であった)。未熟児として生まれ肺炎を患い、2歳にして重度の
喘息と診断された。両親は息子の健康を第一とし、喘息の治療に良い環境を求めて数度移住している。幼い頃はけいれんを伴う喘息の発作で生命の危機に陥ることがあり、その度に酸素吸入器を使用して回復するという状態であった。しかしサッカーやラグビーなど激しいスポーツを愛好し、プレイ中に発作を起こしては酸素吸入器を使用し、また試合にもどっていた。重度の喘息は彼を一生苦しめた。
青年期
ブエノスアイレス大学で
医学を学ぶ。在学中の
1951年に年上の友人、アルベルト・グラナードとともに
オートバイで
南アメリカをまわる放浪旅行を経験し、南米各地の状況を見聞するうちにマルクス主義に共感を示すようになった(このことは著作『モーターサイクル南米旅行日記』に記され、後にこれを原作として映画『
モーターサイクル・ダイアリーズ』も制作された)。
1953年、大学卒業の25日後、友人のカルロス・ペレルとともに再び南米放浪の旅に出る。
J.D.ペロンの
独裁政権下のアルゼンチンを離れ、当初はベネズエラのグラナードを訪れる予定だったが、ボリビア革命の進む
ボリビアを旅した後、
ペルー、
エクアドル、
パナマ、
コスタリカ、
ニカラグア、
ホンジュラス、
エルサルバドルを旅行し、ハコボ・アルベンス・グスマン時代の
ポプリスモ(
社会主義とする見方もある)政権下の
グアテマラに行き着いた。グアテマラで医師を続ける最中、祖国である
ペルーを追われ、グアテマラに
亡命していた女性
活動家のイルダ・ガデアと出会い、共鳴し、社会主義に目覚め、急速にのめりこんで行くとともに、彼女と結婚する。しかし、
アメリカ企業(
ユナイテッド・フルーツ)による
搾取からの経済的独立や、
インディオの復権など、グアテマラ革命と呼ばれるほどの急進的な改革を進めていたアルベンス政権が、
CIAに後押しされた反抗勢力に倒される(
PBSUCCESS作戦)と、ゲバラが「ラテンアメリカで最も自由で民主的な国」と評したグアテマラの革命政権は崩壊した。この出来事がきっかけとなり、
共産主義革命を本気で志すようになったようである。
革命家ゲバラ
に乗るゲバラ1958年11月]]
妻と娘のイルディーダをメキシコに残し、単身キューバへ向かう。
1956年11月25日、フィデル・カストロをリーダーとした反乱軍総勢82名は8人乗りの
レジャーボート「
グランマ号(Granma)」に乗り込んだ。しかし収容過多によって衛生環境などが劣悪となったことに加え、目立たぬよう、嵐の中出航したことなどもあり、7日後にキューバに上陸した時にはすでに体力を消耗し、それに伴い士気も下がっていた。さらに反乱軍の上陸をカストロが事前に発表し、計画の内容もキューバ政府に漏洩していたため、反乱軍は上陸直後に政府軍の襲撃を受けて壊滅状態となった。結局生きて上陸できたのは82人中、ゲバラ、フィデル・カストロ、
ラウル・カストロ、
カミーロ・シエンフエゴスなどを含む12人のみだった。(生き残った人数が17人という説もある。)
上陸後、反乱軍は
シエラ・マエストラ山脈に潜伏し、山中の村などを転々としながら軍の立て直しを図った。その後キューバ国内の反政府勢力との合流に成功し、反乱軍は徐々に増強されていった。当初、ゲバラの部隊での役割は
軍医であったが、革命軍の政治放送をする
ラジオ局を設立するなど、政府軍との戦闘の中でその忍耐強さと誠実さ、状況を分析する冷静な判断力、人の気持ちをつかむ才を如何なく発揮し、次第に反乱軍のリーダーのひとりとして認められるようになっていった。上陸から1年後の兵員増加に伴う部隊の再編成に際して、カミーロやラウルらを差し置き、カストロから第2軍のコマンダンテ(
司令官)に任命され、指揮権と
少佐の階級を与えられ、名実ともにカストロに次ぐ反乱軍ナンバー2となった。
政治家ゲバラ
革命達成の一ヶ月後、旧バティスタ派の人々に対する裁判が行われ、およそ600人が処刑された。ゲバラは処刑の責任者を務め、さらに
政治犯収容所の建設を指揮した。この時迅速に処刑を決断したのは、グアテマラ革命の失敗が、軍内部のアルベンスへの内部の裏切りだったからであると後に語っている。6月には通商大使として独立したばかりのアジア・アフリカ、東欧などを歴訪し、各地で熱狂的に迎えられた。帰国後、農業改革機構工業部長および国立銀行総裁に就任。農地改革と企業の
国有化を進めた。
1960年
8月6日、カストロがアメリカ資本から成る石油関連産業を接収、国有化する。これに対してアメリカはキューバへの
経済封鎖を行った。翌
1961年10月、工業相に就任。経済封鎖による資源不足、さらに
社会福祉事業の無料化により経済が徐々に逼迫していく中、「生産効率の低下は人々の献身的労働によって補える」とし、自らも休日は
サトウキビの刈り入れや工場でのライン作業の労働、道路を作るための土運び、建物のレンガ詰み等、積極的に
ボランティアに参加した。しかしこうした行動も経済を好転させるには至らず、理想を抱くゲバラは徐々にキューバ首脳陣の中で孤立を深めていった。
1965年1月、各国との通商交渉のために外遊を行う。2月24日、
アルジェリアで行われた「アジア・アフリカ経済セミナー」において演説を行い、当時、キューバの最も主要な貿易相手国だった
ソビエト連邦の外交姿勢を「
帝国主義的搾取の共犯者」と非難し、論争を巻き起こした。3月に帰国後、キューバ政府はソビエトから「ゲバラをキューバ首脳陣から外さなければ物資の援助を削減する」旨の通告を受ける。これを受けてカストロにキューバの政治の一線から退く事を伝え、カストロ、父母、子供達の三者に宛てた手紙を残してキューバを離れた。この事はしばらくカストロの側近以外には知らされず、半年後の
10月3日の
キューバ共産党大会においてカストロが手紙を読み上げたことで、初めて世人に知られる事となった。
日本来訪
1959年7月15日にゲバラはキューバの使節団を引き連れて日本に訪れた。当時の日本ではゲバラの知名度はなく、日本のメディアに"カストロ・ヒゲ"と揶揄され、主要メディアはその動向を報じなかった。7月23日には午前中に愛知県の
トヨタ自動車工場のトラックや
ジープの製造ラインを見学、午後には新
三菱重工の飛行機製作現場を訪れた。24日には
久保田鉄工堺工場で農業機械の製作を見学し実際に農業機械を動かして試した後、
丸紅、
鐘紡と回って夕方に大阪商工会議所主催のパーティーに出席した。この他にもゲバラは通商のために
帝国ホテルで
池田勇人通産相に15分間の会談を行ったり、
ソニーのトランジスタ研究所や映画撮影所、肥料工場などを回った。
7月24日の大阪に泊まった際に、当初は翌日に神戸の川崎造船所を視察後、市内のホテルで繊維業者と会う予定だったが、広島が大阪から遠くない事を知り、オマール・フェルナンデス大尉と在日キューバ大使のアルスガライ大使を伴いに宿を抜け出して夜行列車で広島に向かった。25日に広島県庁職員案内の下、
広島平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑に献花し、
原爆資料館と
原爆病院を訪れた。
再び革命の戦いへ
コンゴ民主共和国に渡り革命の指導を試みたが、コンゴの兵士達の士気の低さに失望し、1年後秘密裏にキューバに帰国する。
カストロとの会談の後、新たな革命の場にかつてボリビア革命が起きたものの、その後、レネ・バリエントスが
軍事独裁政権を敷いており、南米大陸の中心部にあって大陸革命の拠点になるとみなした
ボリビアを選び、1966年11月、
ウルグアイ人ビジネスマンに変装して現地に渡る。
独自の革命理論に固執したため、親ソ的なマリオ・モンヘ率いる
ボリビア共産党からの協力が得られず、カストロからの援助も滞り、ボリビア革命によって土地を手に入れた農民は新たな革命には興味を持たず、さらに、元
ドイツの親衛隊の
クラウス・バルビーを顧問としたボリビア政府軍が、冷戦下において反共軍事政権を支持していたアメリカのCIAから武器の供与と兵士の訓練を受けてゲリラ対策を練ったため、ここでも苦戦を強いられる事となる。
1967年
10月8日、20名前後のゲリラ部隊とともに行動、ボリビア・アンデスのチューロ渓谷の戦闘で、政府軍のレンジャー大隊の襲撃を受けて捕えられる。部隊の指揮を務めていたボリビア人のウィリー()とともに、渓谷から7キロほど南にあるイゲラ村に連行され、小学校に収容された。翌朝、60キロ北のバージェ・グランデからヘリコプターで現地に到着したCIAのフェリックス・ロドリゲスがイゲラ村で午前10時に電報「パピ600(ゲバラを殺せ)」の電文を受信。午後0時40分にウィリーがベルナルディーノ・ワンカ軍曹に
M1自動小銃で射殺された後、午後12時45分、政府軍兵士のマリオ・テラン軍曹に右脚の付け根と左胸、首の根元部分を計3発撃たれたが絶命せず、最終的には別の兵士に心臓を撃たれて死亡した。
最期の言葉は、射殺を躊躇する兵士に向けて放った「落ち着け、そしてよく狙え。お前はこれから一人の人間を殺すのだ」である。(実際にはマリオ・テラン軍曹が撃つ時に躊躇していたため、ゲバラに「恐れるな、早く撃て!」と言われ、右脚を撃ち抜いたものの、ゲバラはまだ生きていた。恐怖で部屋を出たテラン軍曹を上官が叱責し、とどめをさしてこいと命令され、もう一度ゲバラが収容されている部屋へ入った。ゲバラは「ちゃんと狙って撃て」と言い、テラン軍曹は左胸と首を撃った。それでも絶命しなかったため、別の兵士がゲバラを仰向けにし、至近距離で心臓を撃ち抜いた。)
ゲバラのゲリラ戦術は、キューバでの実戦経験に裏付けられて完成されたものだった。少人数のゲリラで山岳に潜伏し、つねに
前衛、本隊、
後衛とわけて組織的に警戒し、必要があれば少人数で奇襲的な襲撃を仕掛けるというものだった。
その後の影響と「帰国」
)のチェ・ゲバラ肖像画]]
チェ・ゲバラの生涯と
思想は
西側の若者や革命を目指す者たちに熱狂的にもてはやされ、その写真は
1960年代の後半頃から
Tシャツや
ポスターに
印刷される
シンボルとなった。南米の大学では、現在でもゲリラ時代のチェの顔を描いた大きな垂れ幕を掲げているところがある。その他、サッカースタジアムのゴール裏のファンがゲートフラッグにゲバラの顔を描いたものを掲げていることがある(日本では
浦和レッズのサポーターなど)。またロック・ミュージックにおいても影響を与え、一部アーティストは公認グッズでゲバラの顔写真を使用している(
レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンのTシャツ、ステッカーなど)。
1997年、死後30年にして遺骨が
ボリビアで発見され、遺族らが居るキューバへ送られた。キューバではゲバラの「帰国」を迎える週間が設けられ、遺体を霊廟へ送る列には多くのキューバ国民が集まった。フィデル=カストロは長時間のスピーチで有名であるが、この時のスピーチは珍しく簡潔であった。遺体は霊廟に葬られた。
今日でもチェ・ゲバラは、中南米を始めとした
第三世界では絶大な人気を誇る
カリスマである。特にボリビアではイゲラの聖エルネストと呼ばれる事もある。日本でも中南米の雑貨などを扱う店でチェ・ゲバラの肖像写真がプリントされた
Tシャツが並び、ゲバラの思想や行動を全く知らない若者が
ファッションの一環として着用している姿も見られる。
人物
カストロに「道徳の巨人」「堅固な意志と不断の実行力を備えた真の革命家」と評されるゲバラであるが、実際に誰よりもよく行動し、革命達成後も喘息を抱える身でありながら寝食を忘れて公務と勉学に励んだという。しかし、自己に課す厳格な規律を周囲の者にも求めたため、閣僚だった当時の部下からは「冷徹、尊大で、まるで我々の教師であるかのように振る舞う」と囁かれ、必ずしも好意は持たれていなかったとされる。一方で民衆からはその勤勉ぶりを褒め称えられ、絶大な人気を得ていた。フランスの作家レジス・ドブレは、革命軍に帯同した際のゲバラの印象を「好感は持てないが、驚嘆に値する人物」と評した。他にも
ジャン=ポール・サルトルから「20世紀で最も完璧な人間」と称され、「世界で一番格好良い男」と
ジョン・レノンに言われている。
「2つ、3つ、もっと多くのベトナム(反
帝国主義人民戦争)を作れ」という彼の言葉に象徴されるように、武力闘争を圧政から逃れる唯一の道と断じ、
アウグスト・サンディーノらの過去のゲリラ戦争をよく研究してゲリラ戦の手引き書である『ゲリラ戦争 La Guerra de Guerrillas』(1960年)を著した(しかし、その『ゲリラ戦争』においてすら「平和革命と選挙による変革の道は可能性があるのなら望ましいし追求するべきだ。しかし、現在の条件のもとではラテン・アメリカのどの国においてもそのような希望は実現されることはありそうもないと思われる」と情勢規定している)。また理想主義者でもあり、工業相時代にキューバ国民の労働意欲の低さを目の当たりにし、「共同体のために尽くし、労働を喜びと感じる『新しい人間』」の育成を目指し、その出現を国家展望の下敷きとした(狭義でのゲバラ主義はこれにあたる)。しかしキューバに招聘されたソ連・ヨーロッパの左翼学者達からは「理想論に過ぎる」と反発を招くとともに、現実的な政治路線を目指すキューバ新体制の中で、徐々に彼を孤立させる遠因となった。彼の
直接行動主義と
理想主義は、前者は一面として「戦禍を撒き散らす男」のイメージとなって各国に広まり、後年彼自身のゲリラ闘争の障害となった。一方で後者は彼の自己犠牲的な行動力と相俟って、「清廉で理想に燃えた革命家」としての肯定的なイメージを作り出す要因ともなった。
チェ・ゲバラは喘息持ちでありながらも葉巻の愛好家として知られている。葉巻は革命家の象徴であり、ゲリラ戦での虫除けの効果もあった。また、キューバの特産品でもあるため、これを世界に向けてアピールする狙いもあったとされている。好物に
マテ茶と呼ばれるアルゼンチンの国民的な飲み物があり、父親がマテ茶を
プランテーション事業で手がけていたこともあり、幼い頃から親しんでいた。趣味は写真撮影で「司令官になる前、僕は写真家だった」と彼自身が語っている。カメラは1954年に発売された
ニコン S2を愛用していたが、革命戦争中に同じ部隊にいた軍医オスカル・フェルナンデス・メルに譲った。代わりに旧ソ連製の
キエフを貰った。上記のS2は現在もハバナのカバーニャ要塞に保管されている。
エピソード
- 国立銀行総裁に就任した際、それまでフルネームで行うことが慣例だった紙幣へのサインに、「Che」とだけ記した。貨幣に否定的な考えから行われたものだとされる。また、金融に関して素人であるゲバラの総裁就任を訝った人々が、以下のようなジョークを囁いていた。<「新政府の閣僚を決めるに際し、カストロが『誰かエコノミスタ(経済通)はいないか?』と尋ねた。連日の激務で疲労し、居眠りをしていたゲバラがこれを『コムニスタ(共産主義者)』と聞き間違えてとっさに手を挙げ、彼の国立銀行総裁就任が決まった」<実際にはこのような事実はなかったが、正式な就任発表の際には小規模ながら預金の取り付け騒ぎが起きるなど金融不安が広がった。
- 常人離れした大胆な発想と行動力で知られるが、キューバ上陸直後に仲間の半数以上が殺害、捕縛されたにもかかわらず「俺たちは“17人も”生き残った。これでバティスタの野郎の命運は尽きたも同然だ!」と自信満々にいってはばからないカストロを見て、悲嘆のあまり発狂してしまったのかと本気で心配してしまった。しかしその後に、情報の重要性に注目したカストロの戦略眼や、ゲバラの“捕虜は殺さない”という方針が功を奏し革命に成功した。
- ボリビアのゲリラ基地に入る際、トヨタ製のジープに乗っていた。
略年譜
- 1928年6月14日、アルゼンチン第二の都市ロサリオで裕福な家庭に生まれる。
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1930年 ブエノスアイレスに住んでいたとき、最初の喘息発作を起こす(2歳)。
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1932年 重い喘息のため、一家はコルドバの避暑地アルタ・グラシアに転居する。
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1941年 コルドバの高等学校に入学。喘息にもかかわらず、ラグビーやサッカーなどの激しいスポーツを愛好した。
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1948年 ブエノスアイレス大学医学部に入学、アレルギーの研究を志す。
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1950年 北部アルゼンチンをモペッド(ペダルで走ることもできるオートバイ)で単独走破。
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1951年 オートバイで南アメリカをまわる旅に出る、ラテンアメリカをつぶさに見聞。
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1952年 南米旅行の最終地点ベネズエラのカラカスで、帰国と医学部を卒業することを決意。
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1953年 通常6年の課程を3年で終え、医者の資格を取得。フアン・ペロン支配下で軍医になることを避けボリビアへ。ボリビアで農地改革の現実を目撃。第二のラテンアメリカ放浪。アルベンス社会主義政権下のグアテマラで出会ったペルー人社会主義者イルダ・ガデアの紹介で亡命キューバ人と知り合う。
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1954年 グアテマラのアルベンス政権がグアテマラ軍部の裏切りによって、CIAの傭兵カスティージョ・アルマスに打倒され、怒りとともにメキシコに亡命。
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1955年 イルダ・ガデアと結婚。
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1956年 長女イルディタ誕生。メキシコ亡命中のフィデル・カストロ、弟のラウル・カストロと出会い意気投合、従軍医として反独裁闘争に参加することを承諾。グランマ号(10人乗りのヨットに85人)でキューバに上陸(12月2日)、以後3年間におよぶゲリラ戦に従軍。
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1957年 反乱軍第2軍(75名)の指揮官(少佐)、少佐の階級章(一つ星)をつけたベレー帽は後年チェのシンボルマークとなる。
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1959年 バティスタが国外逃亡しキューバ革命成立。キューバの国立銀行総裁に就任。アレイダ・マルチ・デ・ラ・トーレと結婚し4人の子どもをもうける。
- 同年 アジア・アフリカの親善大使として来日。12日間滞在した。このとき、広島市の原爆資料館を訪問し、「アメリカにこんな目に遭わされておきながら、あなたたちはなおアメリカの言いなりになるのか」と案内人に語った。
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1960年 著書『ゲリラ戦争』出版。ソ連を初訪問。
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1961年 工業大臣に就任。故郷アルゼンチンへ8年ぶりの、そして最後の帰国をするが、滞在時間はわずか4時間だった。
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1963年 アルジェリア独立一周年記念式典に出席。
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1964年 ベン・ベラ大統領の招きでアルジェリア訪問。ニューヨークで国連総会キューバ主席として演説。
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1965年 国際的な革命闘争に参加するためキューバを離れる。アフリカ各地を歴訪し、コンゴでは一時的に闘争に参加。キューバ共産党中央委員会でカストロはゲバラの「別れの手紙」を発表。
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1966年 アフリカ・コンゴでのゲリラ戦に参戦後、「一つ、二つ……数多くのベトナムをつくるために」(1967年に公表されたメッセージの言葉)ラテンアメリカに戻り、変装してボリビアへ。ボリビアでの様子を記した日記は『ゲバラ日記』として死後刊行。
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1967年
10月8日 バジェグランデ近郊のイゲラ村の近くで捕えられ、10月9日バリエントス大統領の命令で処刑(銃殺刑)された。39歳。
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1997年 死後30年目、ボリビアで遺骨が発掘され、ハバナに移送された。
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2004年
1月25日 米国俳優ロバート・レッドフォードが、ゲバラの著作『モーターサイクル南米旅行日記』(邦訳・現代企画室)と、ゲバラの友人アルベルト・グラナードの著作を下敷きにプロデュースした新作映画『モーターサイクル・ダイアリーズ』を携え、ハバナを訪問。遺族やハバナ市民が映画を鑑賞した。
-
2007年
10月8日 没後40周年式典や追悼式典がキューバのサンタクララなどで行われる。
文献
チェ・ゲバラの著作
- 1967年 『ゲリラ戦争』(『三一新書』)、三一書房
- 1967年 『革命戦争の旅 ゲバーラ回想記』、青木書店
- 1967年 『革命の回想』筑摩書房
- 1968年 『ゲバラ日記』(『三一新書』)真木嘉徳訳、三一書房
- 仲晃,丹羽光男訳 -- みすず書房, 1968 新装版1998
- 朝日新聞社外報部訳 -- 朝日新聞社, 1968
- 高橋正訳-- 角川文庫, 1969.1989 改版1999
- 平岡緑訳-- 新訳、中公文庫, 2001. 新版2007
- 1968年 『ゲバラ選集』第1、青木書店
- 1956年 - 1961年4月、フィデルに捧げる歌、他32編
- 1968年 『革命ゲバラは語る』合同出版
- 1968年 『国境を越える革命』レボルト社
- 1969年 『ゲバラ選集』第2、青木書店
- 1961年4月 - 1962年10月、キューバの工業発展に関する報告、他18編
- 1969年 『ゲバラ選集』第3、青木書店
- 1962年12月 - 1964年3月、アントニオ・マセオ、他19編
- 1969年 『ゲバラ選集』第4、青木書店
- 1964年3月 - 1967年10月、ジュネーブでの演説国連貿易開発会議、他19編
- 年譜: p315 - 326
- 1982年8月 『革命戦争の日日』(『集英社文庫』)、集英社、ISBN 4087600718
- 1997年10月 『チェ・ゲバラ モーターサイクル南米旅行日記』現代企画室、ISBN 4773897155
- 2001年10月 エルネスト・ゲバラ・リンチ編『チェ・ゲバラ America放浪書簡集 ふるさとへ1953-56』現代企画室、ISBN
4773801026
チェ・ゲバラに関する著作
-
リデル・ハート編『解放の戦略 毛沢東とゲバラ』佐藤亮一訳、番町書房、1965年
- レジス・ドブレ『革命の中の革命』(『晶文選書』)谷口侑訳、晶文社、1967年11月
- 小林富雄『革命児ゲバラ』風媒社、1968年
- 横堀洋一編訳『ゲバラ・革命と死 知られざる青春と闘いの記録』講談社、1968年
- リカルド・ローホ『わが友ゲバラ』伊東守男訳、(『ハヤカワ・ノンフィクション』)早川書房、1968年10月
- ジャン・ラルテギー『ゲバラを追って 中南米のゲリラたち』岩瀬孝、根本長兵衛訳、冬樹社、1968年
- カストロ、ドブレほか『回想のゲバラ』大林文彦編訳、太平出版社、1969年5月
- 米州機構安全保障に関する特別協議委員会編『ゲバラ日記の分析 米州機構の報告書』ラテン・アメリカ協会訳、ラテン・アメリカ協会、1969年
- ブエノスの灯編『ゲバラ写真集チェ』現代書館、1969年
- 山本満喜子『炎の女性たち カストロ、ゲバラを支えて十年』読売新聞社、1969年
- キューバ国立出版協会編『タニア ゲバラと運命をともにした若き女性ゲリラの闘いと死』桃井健司訳、サイマル出版会、1971年7月
- アンドリュー・シンクレア『ゲバラ』皆藤幸蔵訳、(『現代の思想家』)、新潮社、1971年9月
- 原著: Guevara, London: Collins, 1970; Che Guevara, New York: Viking, 1970; Sutton Publishing, 1998(reprint), ISBN 0750918470
-
三好徹『チェ・ゲバラ伝』文藝春秋、1971年
- フィリップ・ガヴィ『チェ・ゲバラ』山方達雄訳、福村出版、1975年9月
- レジス・ドブレ『ゲバラ最後の闘い ボリビア革命の日々』安部住雄訳、新泉社、1977年9月
- 三好徹『異郷の罠』(『徳間文庫』)、徳間書店、1985年2月
- エドワルド・リウス『チェ・ゲバラ リウスの現代思想学校』西沢茂子、山崎満喜子訳、晶文社、1986年6月、ISBN 4794920245
- 原著: AbCHE: Biografía simple y sencillamente de un revolucionario de nuestro tiempo, Grijalbo, 1978, ISBN 9684190482
- フェリス・I.ロドリゲス、ジョン・ワイズマン『秘密工作者 チェ・ゲバラを殺した男の告白』落合信彦訳光文社、1990年10月、ISBN 4334960510
- 原著: Félix I. Rodríguez, John Weisman, Shadow Warrior/the CIA Hero of a Hundred Unknown Battles, Simon & Schuster; (October 1989), ISBN 0671667211
- マリア・デル・カルメン・アリエット()『チェ・ゲバラの政治思想』丸山永恵訳、IFCC出版会、1992年
- 原著: Maria del Carmen Ariet, Che pensamiento político
- フェルナンド・ディエゴ・ガルシア、オスカー・ソラ編『チェ・ゲバラ 情熱の人生』レナーテ・ヘロルド訳スタジオ・ナダ、1997年
- エドワルド・リウス『チェ・ゲバラ』西沢茂子、山崎満喜子訳(『リウスの現代思想学校』新装版)、晶文社、1997年12月、ISBN 4794912552
- 原著: Rius, Abche: Abche-Political Satire, Era Edicions Sa Published, 1999年、 ISBN 9684190522
- オズバルド・サラス、ロベルト・サラス『エルネスト・チェ・ゲバラ』星野弥生訳、海風書房、1998年6月、ISBN 4768488595
- 写真集、原著: Osvald Salas, Roberto Salas, Ernesto Che Guevara
- 三好徹『チェ・ゲバラ伝』原書房、1998年7月ISBN 456203100X
- アルベルト・コルダ写真、ハイメ・サルスキー、太田昌国『エルネスト・チェ・ゲバラとその時代』棚橋加奈江訳、現代企画室、1998年10月ISBN 4773898062
- Albert Korda, Jaime Sarusuky, Masakuni Ota, Ernesto Che Guevara y su epoca: Colección de fotografías de Korda
- パコ・イグナシオ・タイボII、フェリックス・ゲーラ、フロイライン・エスコバル『ゲバラ コンゴ戦記1965』神崎牧子、太田昌国訳、現代企画室、1999年1月、ISBN 4773898070
- 原著: Paco Ignacio Taibo, Félix Guerra, Froilán Escobar, El año que estuvimos en ninguna parte: La guerrilla africana de Ernesto Che Guevara, Txalaparta Argitaletxea, S.L., ISBN 8481360198
- 樋口聡『僕とゲバラとラティーノたち ラテンアメリカ放浪記』スリーエーネットワーク、1999年7月、ISBN 4883191362
-
戸井十月『ロシナンテの肋 チェ・ゲバラの遙かな旅』集英社、2000年3月、ISBN 4087744647
- 恵谷治『1967年10月8日 チェ・ゲバラ死の残照』毎日新聞社、2000年5月、ISBN 4620314420
- 太田昌国『ゲバラを脱神話化する』現代企画室、2000年8月、ISBN 4773800054
- パコ・イグナシオ・タイボII『エルネスト・チェ・ゲバラ伝』上・下、後藤政子訳、海風書房、2001年6月、上: ISBN 4768488757、下: ISBN 4768488765
- 原著: Paco Ignacio Taibo II, Ernesto Guevara, también conocido como El Che, 2001, Planeta Mexico;(January 2004), ISBN 9706909818
- イルダ・バリオ、ギャレス・ジェンキンズ『チェ・ゲバラ フォト・バイオグラフィ』鈴木淑美訳、原書房、2003年12月、ISBN 4562036796
- Hilda Barrio, Gareth Jenkins, The Che Handbook, St. Martin's Press; (October 1, 2003), ISBN 0312322461
- アレイダ・マルチ『わが夫、チェ・ゲバラ 愛と革命の追憶』後藤政子訳、朝日新聞出版、2008年5月、ISBN 4022504323
映画
- 1969年 『ゲバラ!』(主演:オマー・シャリフ) ビデオ題『革命戦士ゲバラ!』
- 1985年 Fernando Birri, Mi hijo el Che - Un retrato de familia de don Ernesto Guevara
- 1994年 Richard Dindo, Ernesto Che Chuevara, das bolivianische Tagebuch
- 1997年 Miguel Miño, Ernesto Che Guevara
- 1997年 Aníbal Di Salvo, Maurice Dugowson, El Che
- 2000年 マルセロ・シャプセス監督・脚本『チェ・ゲバラ 人々のために』
- 生前のチェ・ゲバラと寝食をともにした元闘士や写真家たちへのインタビューや現存する映像を駆使したドキュメンタリー。アルゼンチン映画。
- Marcelo Schapces, Che - Un hombre de este mundo
- 2003年11月28日 『チェ・ゲバラ DVD-BOX』
- 2004年10月9日 『モーターサイクル・ダイアリーズ』(主演:ガエル・ガルシア・ベルナル)
- 2005年5月27日 『チェ・ゲバラ&カストロ』(主演:ガエル・ガルシア・ベルナル)
- <!--2009年1月10日『チェ 28歳の革命』(主演:ベニチオ・デル・トロ)
- 2009年1月31日『チェ 39歳 別れの手紙』(主演:ベニチオ・デル・トロ)
ゲーム
- 『ゲバラ』(SNK)-1987年にアーケード版と、1988年にそれを移植したファミリーコンピューター版がそれぞれ発売された。ジャンルは縦スクロールシューティングゲームで、プレイヤー1のキャラはゲバラ、プレイヤー2のキャラはカストロ。更にラスボスはゲバラ達がキューバ革命で追い出したフルヘンシオ・バティスタ。
脚注
関連項目
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チェ・ゲバラ霊廟
- ゲバラ主義 - 人民のモラルで共産主義を実現する考えと、ゲリラ戦においてゲバラを教示するという二つの側面を持つ。(単純にゲバラ信奉者という意味もある)
- アレイダ・ゲバラ - 小児科医 チェ・ゲバラの娘(次女)
- ロドリゴ・デ・ラ・セルナ - アルゼンチンの俳優 チェ・ゲバラのはとこ
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デ・トマソ - 創始者アレハンドロ・デ・トマソはゲバラと交友があったといわれている。
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ゲバラ日記 - ゲバラがボリビアでつけていた日記。
外部リンク
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