概要
設立
先進技術の導入
設立後よりフレデリック・ジーダー(Frederick Zeeder)らの有能な技術者を擁し、大衆車では例がなかった油圧
ブレーキシステム、「フローティングパワー」と呼ばれる新方式のエンジンマウント、油圧式パワーステアリングなど、クライスラーは技術面でGMやフォードに先んじた姿勢を取っていた。
その自負のもと、
1930年代初頭には、先進技術と流線形の斬新なデザインを合わせた新型車「エアフロー」を導入したが、先進的過ぎたために市場に受け入れられず、商業的には成功出来なかった。しかしこれ以降アメリカやヨーロッパ、日本では流線形のデザインが主流となっていく。
第二次世界大戦
1930年代には
戦車やウエポンキャリアなどの軍用車の製造にも進出した。以後軍用車部門は同社の収益の多くをあげる重要部門に成長し、
第二次世界大戦中は戦争特需で同社の経営の安定に大いに貢献した。
また、第二次世界大戦中は一般向けの乗用車の開発が中止され、新車の販売も極度に制限されたものの、終戦後の
1940年代後半は、帰還兵による特需で乗用車の売り上げを伸ばした上に、
1950年に勃発した
朝鮮戦争による特需で、再び軍用車部門の売り上げが増えることとなった。
ヘミエンジンとモパー
またこの頃は、アメリカ経済が絶頂期にあったこともあり、テールフィンがつき、大きいエンジンを積んだ利幅の大きい大型車(フルサイズ)が人気を博し、高性能な大型車が得意なクライスラーにとっての絶頂期でもあった。
拡張路線
これらに先立つ、
1960年には
オーストラリアに生産拠点を設けた(のちに
日本の
三菱自動車に売却)他、シムカの設備を利用して
ブラジルでの生産も開始し、本格的な世界進出を開始した。
経営危機
しかし、これらは「負け組連合」と称されたような各国の弱小メーカーの寄せ集め的な買収の繰り返しであり、吸収合併による合理化やスケールメリットすらもたらすことのない有様であった。また、当時アメリカ国内で行われた無理な生産拡大が結果的に品質低下と販売不振による過剰在庫、
リコールの多発をもたらした。
さらに
1979年に起きた
イラン革命以降の第二次石油危機と、アメリカ国内における日本車の急激なシェア拡大、それに反比例した利幅の大きい大型車の販売不振が追い討ちをかけた結果、
1970年代後半には深刻な経営危機となり、運営資金が枯渇する状況に陥った。
アイアコッカ登場
経営危機の真っ只中の
1978年に、フォード・モーターの社長をつとめていたものの、同社会長のフォード2世との対立から解雇の憂き目にあっていた
リー・アイアコッカが新たに社長に就任し、連邦政府と議会から
ストックオプションと引き換えに、借り入れに対して政府保証を得ることに成功した。
アイアコッカの就任直後に運営資金が底をついたことから、第二次世界大戦以前より同社の収益の大きな柱であった軍事産業部門の売却を余儀なくされるなど苦難と時を迎えたものの、アイアコッカの就任後より開発を進め、
1980年に早くも発売を開始した
前輪駆動の小型車「Kカー」シリーズの導入と、全ラインナップの小型化の推進や、
1984年に販売された
ミニバンの導入、肥大化した組織の見直し、不採算部門の売却や閉鎖などの大々的な改革を行い、
1980年代半ばには、数年前までは倒産寸前だった同社を完全に立て直すことに成功した。
AMCを吸収
その後
1987年には、アイアコッカの指示のもと当時
フランスの
ルノー傘下で、「
ジープ」ブランドを所有するアメリカ第4位の自動車会社であるAMC(
アメリカン・モーターズ)を買収したが、AMCが深刻な販売不振に陥っていたこともあり、シェアにおいてビッグ3の他2社を上回ることはできなかった。
しかし、同社の販売網を組み込むことでアメリカ国内の販売網が拡充した上に、同社が展開していた「
ジープ」ブランドの各車は、その後クライスラーに大きな売り上げをもたらすことになる。
他社との提携
1985年には三菱自動車と提携し、「ダイアモンド・スター・モータース」を設立。
1988年から
イリノイ州に建設した工場で共同生産を開始し、「イーグル」ブランドなどで発売された。また三菱自動車が日本で生産した小型車をクライスラーやダッジ、イーグルのブランドで販売した。
その後、
イタリア系のアイアコッカの指示のもとで、アイアコッカの友人で
アルゼンチン系イタリア人のアレッサンドロ・デ・トマソが経営するイタリアの
高級車メーカー・
マセラティとも提携し、
1988年には共同開発した高級2シーター車「TC」を少数生産した。
その後
1992年にアイアコッカは引退したものの、
1994年には、三菱自動車などとの提携から学んだ小型車開発のノウハウを生かして、最低価格が1万ドルを切る安価な小型車「
ネオン」を開発し、同社はその後「日本車キラー」と呼ばれ人気を博した。
「ダイムラー・クライスラー」時代
1998年に、
ドイツの
ダイムラー・ベンツ社と合併して
ダイムラークライスラー・AGとなった。この合併は対等合併ではあるが、事実上ダイムラーによる買収であった。しかしながら合併後、メルセデス・カーグループとクライスラー・グループの両方で好業績をあげたのは初年度だけで、以後はどちらかが不振に陥っている。
クライスラー・グループに関しては一時、「
PTクルーザー」や「
300C」などの予想外の好調な販売に助けられた時期があったものの、中・大型車中心のラインアップが災いして、
イラク戦争後の深刻な原油高の影響で再び業績低迷に陥った。2006年決算では営業損益の赤字が11億1800万ユーロ(約1770億円)に達した。このためクライスラー・グループの分社化や売却の噂が絶えない状況となった。
再出発
クライスラーは、サーベラスの傘下で「クライスラー・LLC」として事業再建を図ることになった。売却後もダイムラーからの出資(19.9%)及び技術開発等の提携関係は継続している。
現在
サーベラスの傘下で再建を進めていたものの、原油価格の高騰による大型車やピックアップ・トラックの売り上げ低下に加え、いわゆる「サブプライム問題」表面化以降の世界的な景気悪化を受けて売り上げが低下し、2008年後半にGMやルノーとの合併(事実上の吸収合併)が取りざたされた。
日本でのビジネス
生産においては、
1970年に
三菱重工業との合弁により
三菱自動車工業を設立。合弁契約は
1985年に合意のうえ解約、クライスラーの出資分の大部分は三菱重工業が買収し、資本提携に転じた(三菱自動車工業はその後上場)。
1993年に三菱自動車工業との資本提携を解消し、日本での生産からは完全に撤退した。
販売においては、
1920年代より
日本への輸入が開始され、第二次世界大戦前まではクライスラーやデ・ソートなどが上流階級や富裕層に、ダッジなどがタクシーなどに愛用されていた。その後は麻布自動車など幾つかのインポーターの変遷を経て
1988年、
セゾングループの
大沢商会との共同出資で、日本法人「クライスラージャパンセールス」が設立された。
1990年には
本田技研工業と販売提携を結び、ホンダ販売店にて「ジープ」車の販売を始めた(
1997年に提携終了)。
1990年代の輸入車ブームになると、日本でのビジネスにいよいよ本腰を入れ始めた。
1995年、クライスラーがセゾングループ側の出資株を全部買い取り、
西武自動車販売を吸収合併し、クライスラー100%出資の新生「クライスラージャパンセールス」として再スタート。独自での日本販売網を構築した。
「ダイムラー・クライスラー」誕生に伴い、
1999年には「メルセデス・ベンツ日本」と合併し「ダイムラー・クライスラー日本」となり
2007年には
ダッジブランドの展開を開始した。2007年にダイムラーとクライスラーとの協業解消に伴い、同年
11月1日に「ダイムラー・クライスラー日本」は「メルセデス・ベンツ日本」として元の社名に戻り、その子会社としてクライスラー・ダッジ・ジープブランドを取扱う「クライスラー日本」として新たに発足運びとなった。
現在のブランド
過去のブランド
車種
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関連項目
外部リンク
- アメリカ
- 日本
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