生涯
1780年、プロイセン王国の
マクデブルク近郊ブルクで生まれる。父親は下級将校を自称しており、クラウゼヴィッツが生まれた時にはブルクの王室収税官であった。
1792年にポツダムのフェルディナント親王歩兵連隊に入隊し、
1794年に
ラインラントにおけるマインツ攻城戦で初めて戦闘に参加した。少尉に任官された15歳からの6年間はノイルッピンで過ごす。このときに所属していた連隊の連隊長の考課表によれば、有能かつ熱心、頭脳明晰で好奇心旺盛と評価されている。
1801年に
ベルリンの士官研修所に入り、そこで
シャルンホルストのもとで
軍事学を学ぶ。その後にシャルンホルストの非公式な軍事協会に入会してより軍事についての理解を深めた。この頃にクラウゼヴィッツはシャルンホルストから多大な影響を受け、後の婚約者への手紙に「父でもあり、心の友でもあった」と書き送っている。
1803年にプロイセン軍アウグスト親王の副官に任命され、6年間に渡って副官としての業務を行いながらも軍事学の文献だけでなく、外交・文化・歴史・文学についての文献を多読し、
マキャヴェリや
モンテスキュー、
カントの影響を受けて独自の思考様式を育んだ。そして
ナポレオン戦争に従軍して
1806年に親王と共にフランス軍の
捕虜となるまで、多くの戦史研究や戦略論、政治評論などを執筆している。
1807年の
ティルジット講和条約が締結された後に捕虜交換により釈放され、その後フランス軍占領下にあったベルリンに帰還した。
1809年に陸軍省に勤務して翌年に少佐に昇進する。またこの後に2年間に渡ってプロイセン皇太子の軍事教官として近世軍事史の講義を行った。そして
1810年12月に紹介で知り合った伯爵令嬢のマリー・フォン・ブリュール(Marie von Brühl)と結婚する。
1812年の
ナポレオンの
ロシア遠征時には、ナポレオン打倒を誓う愛国的な同志と共にプロイセン軍を離れてロシア軍に作戦参謀として参加した。そしてナポレオンが指揮するフランス軍を戦略的な守勢と遅滞作戦で持久戦に追い込むことに貢献し、タウロッゲン協定締結に尽力する。
1813年にナポレオン支配に対する
諸国民解放戦争が勃発し、シャルンホルストはグロスゲルシェンの戦いで負った負傷が悪化して
プラハで死去した。クラウゼヴィッツはグナイゼナウと共に追悼している。
1814年にプロイセン軍に大佐として戻り、第3軍団の
参謀長になる。
1815年の
ワーテルローの戦いでナポレオンが敗北した後にはコブレンツの軍団長となったグナイゼナウの参謀長となる。
1818年に少将に昇進して陸軍大学校校長として勤務しながら軍事研究を行った。
1830年に校長を辞任するとブレスラウ管区の第2砲兵監に任命されるが、
7月革命に影響されたポーランドでの暴動が生じると再び東方監視軍司令官グナイゼナウの参謀長となる。しかし翌1831年に蔓延した
コレラにより8月にグナイゼナウが病没した後、彼自身も11月にブレスラウで
コレラにより死去する。
翌1832年に彼の軍事研究は『
戦争論』として、未亡人の手で整理されて刊行されることになった。戦争論には彼女の刊行の辞がある。この戦争論は軍事研究の古典的な地位を占めている。
影響を受けた人物
- クラウゼヴィッツの教えを直接受けた弟子。
関連項目
外部リンク
関連文献
- 『戦略論大系2 クラウゼヴィッツ』 戦略研究学会編集 芙蓉書房出版 2001年
- 『クラウゼヴィッツのナポレオン戦争従軍記』 クラウゼヴィッツ/金森誠也訳 ビイング・ネット・プレス 2008年
- この2冊は、近年邦訳刊行された「戦争論」以外の著作。
- クラウゼヴィッツと『戦争論』に関する画期的な最新研究。清水多吉、三宅正樹、川村康之、石津朋之といった日本の研究者のほかにも、マーチン・ファン・クレフェルトやウィリアムソン・マーレー、ヴィレム・ホーニヒなど国際的に有名な研究者が論文を寄稿。
- 『クラウゼヴィッツ 戦争論の誕生』 ピーター・パレット/白須英子訳 中公文庫BIBLIO 2005年 英訳者による研究書
- 『クラウゼヴィッツの戦略思考 戦争論に学ぶリーダーシップと決断の本質』 ダイヤモンド社 2002年
- ティーハ・フォン・ギーツィー/ボルコ・フォン・アーティンガー/クリストファー・バスフォー編著 ビジネス面の応用書
脚注
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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
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