バインズは
1930年から
1933年までの4年間、アマチュアテニス選手として活動した。初出場だった
1930年の
全米選手権では3回戦で敗退したが、
1931年に2度目の出場で決勝進出を果たし、
ジョージ・ロット(
1906年 -
1991年)を 7-9, 6-3, 9-7, 7-5 で破って初優勝を飾った。
1932年がバインズのテニス経歴の最盛期で、
ウィンブルドン選手権と
全米選手権で4大大会2連勝を達成した。ウィンブルドンでは、4回戦で
日本の
青木岩雄に第2セットを許したが(バインズのスコア:6-2, 3-6, 6-3, 6-2)準々決勝以後の3試合はすべてストレート勝ちを収める。地元
イギリスの
ヘンリー・オースチンを 6-4, 6-2, 6-0 で圧倒した決勝戦で、バインズは試合中に30本のサービス・エースを放った。全米選手権決勝では
フランスの
アンリ・コシェを 6-4, 6-4, 6-4 で破って2連覇を果たし、
キース・グレッドヒルとペアを組んだ男子ダブルスも優勝して、単複2冠獲得を達成した。
1933年、バインズは初めて
全豪選手権に遠征した。シングルスでは準々決勝で当時17歳の新鋭
ビビアン・マグラスに敗退したが、
キース・グレッドヒルと組んだ男子ダブルスで優勝する。バインズとグレッドヒルのコンビは、4大大会の男子ダブルスで2勝を挙げた。
1933年ウィンブルドンの決勝戦で、バインズは
オーストラリアの
ジャック・クロフォードに 6-4, 9-11, 2-6, 6-2, 4-6 のフルセットで敗れ、大会2連覇を逃した。(1933年ウィンブルドンでも、3回戦で
三木龍喜との対戦があった。)続く
全米選手権で、バインズは4回戦で同じ
アメリカのブライアン・グラント(
1910年 -
1986年)に敗れ、大会3連覇をあっけなく逃した。この大会の混合ダブルス部門で
エリザベス・ライアンとペアを組んだ優勝を最後に、バインズはアマチュアテニス界を離れ、「プロテニス選手契約書」に署名する。こうしてバインズはプロテニス選手となり、先輩の
ビル・チルデンたちと一緒にプロテニスツアーを回った。
4大大会優勝
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全豪選手権 男子ダブルス:1勝(1933年)
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ウィンブルドン選手権 男子シングルス:1勝(1932年)
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全米選手権 男子シングルス:2勝(1931年&1932年)/男子ダブルス:1勝(1932年)/混合ダブルス:1勝(1933年)
外部リンク
参考文献
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日本テニス協会発行『テニス・プレーヤーズ・ガイド』 2006年版(177・181ページより、青木岩雄と三木龍喜の4大大会成績表を参照)
- 青木岩雄君追悼録編『青木岩雄君』(1940年、青木君伝記編纂会刊行) 本書の246-256ページで「ヴァインズとの一戦」の章を割き、483-487ページに青木が記した『ヴァインズを語る』(1936年10月1日付読売新聞掲載)の記事が掲載されている。エルスワース・バインズについて日本語で書かれた最も詳細な資料。