生涯
父は富裕な商人、母(ヨハンナ・ショーペンハウアー)は女流作家。父に伴われて幼少時から
ヨーロッパ各国を旅行する。
17歳のとき、父が死亡。父の遺志に従って商人の見習いを始めたが、学問への情熱を捨てきれず大学へ進学し、
ゲッティンゲン大学・
イェーナ大学で
医学・哲学(
カント・
プラトン)を修める。このころ母の友人であった
ゲーテとも親交を結ぶが、ゲーテが「彼はいずれ大成する」と言ったこともあり、(一家に偉人は一人しか出ないと考えていた)母との仲が険悪化した。
1819年、『意志と表象としての世界』を完成、
ベルリン大学講師の地位を得るが、当時ベルリン大学正教授であったヘーゲルの人気に抗することができず、フランクフルト・アム・マインに隠棲。同地で余生を過ごす。
『意志と表象としての世界』の概要
第一部「表象としての世界の第一考察」
ショーペンハウアーは、世界はわたしの表象であるという。このことは、いかなる客観であっても主観による制約を受けていることを示している。その制約は必然性を与えるもので、「なにものも何故それが存在するのかという理由なしには存在しない」という「
ヴォルフのもっとも一般的な定式」を示すものとされている。
ショーペンハウアーが本書の序論とみなしている博士論文「根拠律の四つの根について」においては以下の4類に分かたれている。
- 先天的な時間空間、ないしは「存在 (essendi) の根拠(充足理由律)」
- 原因と結果の法則、あるいは「生成 (fiendi) の根拠」
- 概念論理的判断、ないしは「認識 (cognoscendi) の根拠」
- 行為の動機づけの法則、ないしは「行為 (agendi) の根拠」
第二部「意志としての世界の第一考察」
世界は、主観によって制約された客観としてはわたしの表象である。しかしそればかりでなく、ショーペンハウアーは、世界はわたしの意志であるともいう。われわれ自身は、表象においては身体の動作として知られているが、そのものが自己意識においては生きんとする意志 (Wille zum Leben) として知られる。いわば身体は表象において表現されたところの意志である。ここで
独我論を避けるには、自己から類推 (analogie) して、世界の他の本質も意志とみなすべきであるとして、「あらゆる表象、すなわちあらゆる客観は
現象である。しかしひとり意志のみは
物自体である」とショーペンハウアーは説く。
こうして把握された意志は盲目であって、最終の目標を有してはおらず、その努力には完成はないものとされる。そのような意志においては、障害を克服して得られた満足は一時的であって、しかも無為は退屈にすぎないのであり、あくまでも積極的なのは欠乏であるといわれる。
第三部「表象としての世界の第二考察」
ショーペンハウアーは、
イデア (Idee) について、表象において範型として表現された意志であると位置づけている。イデアは模倣の対象として憧れを呼び覚まし未来をはらむものであることから、概念は死んでいるのに対してイデアは生きているといわれる。
このイデアは段階的に表現されるものであり、これにあたるのは、無機界では自然力、有機界では動植物の種族、部分的には人間の個性であるといわれる。存在を求める闘争においては勝利したイデアは、その占拠した物質が別のイデアに奪取されるまでは、己自身を個体として表現するものとされる。ここでは個体は変遷するものであるが、イデアはあくまでも不変であるとされる。
矛盾が支配している未完成な
現実の世界に対しては、完成したイデアの世界には調和がある。そこでイデアの世界において芸術に沈潜した人は、意志なき、苦痛なき喜びを少なくとも一時的には得るであろうといわれる。
第四部「意志としての世界の第二考察」
生きようとする意志は、おのれを自由に肯定したり、あるいは自由に否定すると言われる。第三部までに考察されてきたような、意志が肯定された場合においては、この世界で「ある」ものが生ずる。これに対し、意志が否定された場合における、この世界で「ない」ものについては、最終的には哲学者は沈黙する他ないものといわれている。
抽象的知性は格律を与えることによって、その人間の行為を首尾一貫させるものではあっても、首尾一貫した悪人も存在しうるのであり、あくまでも意志の転換を成し遂げるのは、「汝はそれなり」という直覚的な知のみであるといわれる。この知に達して、マーヤーのヴェールを切断して、自他の区別(個体化の原理)を捨てた者は、同情 (Mitleid) ないし同苦(Mitleid)の段階に達する。このとき自由なもの(物自体)としての意志は自発的に再生を絶つのであり、ショーペンハウアーの聖者は、利己心・種族繁殖の否定に徹し、清貧・純潔・粗食に甘んじ、個体の死とともに解脱するとされている。
他思想との関係
自殺論
セネカなどの
ストア派は回復の希望のない苦痛を忍ぶよりは自殺を推奨するものであるが、ショーペンハウアーはこれに対する共感を語ってはいる。反面では、自殺のもたらす個体の死は、けして意志の否定による解脱を達するものではない点、虹をささえている水滴が次々に交代しても、虹そのものはそのまま残るようなものであって、自殺は愚行にすぎないとも説かれている。
キエティスム
キエティスム(Quietism、静寂主義) は、様々な解釈と定義を持つ用語であるが、ショーペンハウアーは、その主著においてキエティスムの代表者の一人である
ギュイヨン夫人を取り上げた。ギュイヨン夫人は「自分は罪を犯すことはできない。なぜなら、罪とは自我のことだからだ」と主張したことで知られているが、ショーペンハウアーによれば、意志の肯定が
原罪であり、意志の否定が
救済であるとする立場からは、この服従と無私は、世界の苦悩からの救済もしくは解放である。
唯物論
ショーペンハウアーによれば、
唯物論は「先決問題要求の虚偽」であるといわれる。唯物論は物質を思考するとしているが、われわれは、じつは物質を表象する主観、物質を認識する
悟性を思考しているにすぎないものとしている。
自由意志
スピノザは、空中に投げられた石にもし意識があれば自分の
自由意志で飛んでいると思うだろうと論じているが、ショーペンハウアーはこの議論を認めている。彼によれば、意志の自由がいわば別人になることを意味する限り、物自体としてでなければ、意志は自由でないものとしている。
ニーチェ
『
悲劇の誕生』における
ニーチェは、ショーペンハウアーの意志と表象との区別に対応するものとして、「ディオニュソス的なもの」と「アポロン的なもの」を提唱している。個体化の原理に基づくアポロン的な仮象を破壊するといわれているディオニュソス的なオルギアは、根源的な矛盾として位置づけられてはいるが、ショーペンハウアーの意志の単一性(汝はそれなり)の洞察に基づく意志の否定の思想とは区別されるものと考えられる。
幸福論
ショーペンハウアーは、世俗的な
幸福の源泉を以下の3つに分けている。人のあり方、人の有するもの、人の印象の与え方。この内、もっとも肝心なのは、「人のあり方」であるとした上、外部的な財宝や名誉よりは、健全な身体に宿る健全な精神の増進を推奨している。また完全な満足に伴う停滞感は人間には耐えがたいとした上、障害に打ち勝つことは人間の生存の充分な享受であるとしている。
その他
ショーペンハウアーは卓越した表現力と幅広い教養の持ち主であった。彼の哲学説は芸術論・自殺論が有名であるが、実際は
法律学から
自然学まであらゆるジャンルを網羅した総合哲学である。主著の序論「根拠律の四つの根について」、主著「意志と表象としての世界正編」「カント哲学の批判」のほかには、壮年期の「続編」「自然における意志について」「倫理学の二つの根本問題」、晩年の「余録と補遺」がある。
カントの後継者を自任したショーペンハウアーは、
ヘーゲルに強力な批判を加え、「私はカントから私までのあいだに、哲学上何事かがなされたと認めることはできない」と語っている。
意志を直接に表現した時間の芸術たる音楽では、
ロッシーニを終生愛した。ショーペンハウアーを熱烈に敬愛した
ヴァーグナーに対しては「音楽家というよりは詩人としての才能がある」という微妙な言葉を残した。
知性よりは意志を強調したその哲学は、後年の
生の哲学、
実存主義のはしりと見ることもできる。終生独身を通し、また
無神論者でもあった。
他に彼は翻訳に対しても厳しい批判を加えている。彼が翻訳で読んでいたのは、
七十人訳聖書と
ウパニシャッドくらいである。しかし七十人訳聖書はギリシア語で読んでいた。ほかに、他人の書物だけを論じているものも、彼は嫌っていた。
参考文献・脚注
翻訳著書
-
白水社より『ショーペンハウアー全集』が刊行されている。
- 『幸福について 人生論』(新潮文庫 ISBN 4-10-203301-7)
- 『読書について』 『自殺について』 『知性について』 各(岩波文庫)
-
西尾幹二訳 『意志と表象としての世界』(中公クラッシクス全3冊)