アパルトヘイト [History of South Africa in the apartheid era] [被リンク数: 115]

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市内の海岸で掲示された非白人立ち入り禁止の看板。英語アフリカーンス語ズールー語で併記<撮影・提供:John Mullen]]
アパルトヘイトApartheid)はアフリカーンス語で分離、隔離の意味を持つ言葉。特に南アフリカ共和国における白人と非白人(黒人インドパキスタンマレーシアなどからのアジア系住民や、カラードとよばれる混血民)の諸関係を差別的に規定する人種隔離政策のことを指す。南アフリカ共和国はこの政策のために32年間五輪からさえも追放されるなど強い批判を受けている。
1948年に法制化され、以後強力に推進された。80年代後半は、国際社会から激しい非難を浴び、貿易禁止などの経済制裁を受け、経済的に行き詰まった結果、1991年に当時のデクラーク大統領が法律撤廃を打ち出した。その後、ANC(アフリカ民族会議)など、解放勢力との長期にわたる交渉の末に、1994年全人種による初の総選挙が行われ、国際連合に「人類に対する犯罪」とまで言われたこの制度は完全撤廃された。

内容

その内容は基本的には17世紀以来のものであるが、アパルトヘイトという言葉は、1913年の原住民土地法に登場する。しかし、広く使われ始めたのは、国民党が人種差別を制度的に強化した1948年以降である。差別される側の黒人は約2500万人、インド系住民約90万人に対して、白人は490万人にすぎない。
白人政府は、「南アフリカにはたくさんの民族が住んでいて、それぞれ違う伝統や文化、言語を持っている。それぞれの民族が独自に発展するべきだ。アパルトヘイトは差別ではなく、分離発展である」と表向き主張した。しかし、ねらいは少数の白人による政治的経済的特権を維持し、安価な労働力を非白人から供給することにあった。
黒人達は白人が経営する農園や工場で働き、給料は白人の10分の1以下だった。しかも失業が多いため、一人の給料でたくさんの親戚を養うことも多かった。住む家も、空き地に粗末な小屋を立てて生活する人たちも多勢いた。
黒人達が住むホームランドや黒人居住区の道路は舗装されていない道が多く、舗装されていても穴が多く、維持・管理が不十分であった。

人種分類

アパルトヘイトでは法律で人種を次の4通りに分けた。
  • 白人イギリス系住民と、アフリカーナーオランダ系を中心とするアフリカーンス語を話す住民。
  • カラード(白人と、サン人やコイコイ人など先住民族との混血を中心にした混成グループで、奴隷として連れられてきたインドネシアマレー系の住民との混血も含まれる。使用言語はおもにアフリカーンス語)
  • アジア人インド系、マレー系住民が主)
    • 日本人は1961年以降、経済上の都合から「名誉白人」扱いとされていたが、白人との結婚も、人種の違う人間がおなじ場所に住むことも許されなかった。
  • 黒人(南下してきた、ズールー、ソト、コーサ、ンデベレ、ツワナなど、バンツー系民族)

差別の内容

(Ciskei)区域,アパルトヘイト政策により、南アフリカ共和国内につくられたアフリカ人自治地域のひとつ。]] 原住民土地法バンツー自治促進法バントゥースタン(ホームランド)政策など
1971年に実施された。国土の13%にすぎない辺境不毛の地に設けたホームランドといわれる「国」を10地区作り、白人の何倍もいる多数派である黒人をそこに住まわせようというもの。ホームランド10地区は種族別に分かれており、それぞれに自治権を与えて、最終的には独立国としようとするのであった。といっても、それは名目上であって、目的は黒人を他国の国民として扱うことで、彼らから南ア市民権を奪い、参政権を奪い経済的には白人に依存せざるをえない黒人を外国籍の出稼ぎ労働者として扱おうとするものであった。さらに、絶対多数人種である黒人を新独立国へと隔離することで、白人は多数派として、少数派であるカラード、インド系人と、「見かけ上は差別はない」が「実質は白人優位の」多人種社会の再構築をも目論んだのである。黒人の反対にもかかわらず、トランスカイボプタツワナベンダシスカイの4地区は「独立」(1976年1981年)させられるものの、国際的には独立国として承認されず、むしろ国際社会の非難を浴びることになった。
隔離施設留保法
レストランホテル列車バス公園に公衆トイレまで公共施設はすべて白人用と白人以外に区別された。白人専用の公園などの場所に立ち入った黒人はすぐに逮捕された。
集団地域法
人種ごとに住む地域が決められた。特に黒人は産業地盤の乏しい限られた地域に押し込められ、白人社会では安価な労働力としかみなされなかった。
雑婚禁止法
人種の違う男女が結婚することを禁止された。
背徳法
異なる人種の異性が恋愛関係になるだけで罰せられる法。
その他、就職賃金教育医療宗教など、日常生活の隅々にわたって非白人を差別する政策が、無数の法と慣行で制度化されていた。しかし、これらの差別法を非白人に守らせるには膨大な警察、管理機構が必要であり政府予算の半分近くがアパルトヘイト維持のための関連支出になってしまった。これらは白人納税者にとっても負担であり黒人の熟練労働を禁じたことも経済成長のうえでマイナスになった。

反アパルトヘイト運動から政策撤廃まで

アパルトヘイトに対しては、対象人種だけでなく、主にイギリス系の白人の多くから反発があった。イギリス系よりもアフリカーナが公職でははっきり優遇されていた。代表的な反アパルトヘイト運動として、ネルソン・マンデラ氏が所属していたアフリカ民族会議(ANC)や南アフリカ・インド人会議(SAIC)など。のちにアフリカ民族会議は分裂し、パンアフリカニスト会議(PAC)ができる。 1955年には、ANCやSAICなどによりクリップタウンで自由憲章が採択されるが、政府はそこに集まった群衆を解散させ、翌1956年には中心的な活動家を反逆罪で告訴した。
1980年代に入ると、国内各地でますます反対運動が激化、また、国際的な経済制裁を受けた。これらを受け、1989年9月に大統領に就任したデクラークはこれまでの政府(国民党)の方針を転換し、撤廃に向けての改革を進展させた。その政策方針により、1990年 2月、ANC やPAC、南ア共産党を合法化し、ネルソン・マンデラを釈放した。91年2月には国会開会演説でアパルトヘイト政策の廃止を宣言し、6月には人種登録法、原住民土地法、集団地域法が廃止され、アパルトヘイト政策は完全に廃止された。これを受けて欧州共同体(EC、のち欧州連合・EU)、アメリカ日本は次々と経済制裁を解除していった。
この背景には、当時冷戦下における西側諸国は、南アフリカ共和国がレアメタルの独占的産出国であり、南アフリカ共和国からこれら資源を輸入しなくては、敵国ソ連から輸入せざるを得ない状況であった。それ故にアパルトヘイト政策を非難する経済制裁を発することが出来ず、南アフリカ政府はアパルトヘイト政策を継続できた。ところが冷戦終結により旧東側諸国からのレアメタルの資源供給が容易になり、南アフリカ共和国の国際社会での立場が弱まり、欧米や日本から経済制裁を受けたことがアパルトヘイト撤廃に繋がっていった。

アパルトヘイト廃止後

アパルトヘイト廃止後の南アフリカ共和国のことを話し合うために全18政党・組織が参加した民主南アフリカ会議(CODESA(コデサ))が1991年12月と1992年5月に開催された。しかし、交渉中にANC系組織とインカタ自由党 (IFP。ズールー族系))との武力衝突がトランスヴァール州(現ハウテン州など)、ナタール州(現クワズール・ナタール州)で頻発し、多くの死傷者が出た。そのためにしばしば交渉は中断、延期されるものの1993年4月に26政党・組織が参加した多党交渉フォーラムで、選挙までの政体として全政党・組織が参加した暫定政府を同年12月に発足させることに決まり、同時に暫定憲法も制定した。
1994年4月に全人種が参加する選挙が行われ、5月にネルソン・マンデラが大統領となり新政権が樹立された。得票率は、アフリカ民族会議(ANC)62.6%、国民党20.4%、インカタ自由党(IFP)10.5%、その他という結果である。アフリカ民族会議は黒人票の90%を獲得したと推定され圧倒的な強さを見せたが、単独で憲法を制定できる2/3には届かなかった。
マンデラは民族和解・協調を呼びかけ、アパルトヘイト体制下での白人・黒人との対立や格差の是正、黒人間の対立の解消、経済制裁による経済不況からの回復に努めた。
ツツ主教を委員長とする真実和解委員会を発足させ、人権侵害を行ったと指摘された人物・団体は刑事訴追を行った。経済政策として、公共事業を通じて失業問題を解消させ、土地改革によって不平等な土地配分を解決し、5年間に毎年30万戸以上を建設することで住宅問題の解決を図り、上下水道などの衛生施設の完備をし、2000年までに250万世帯を電化するといった計画を発表した。しかし、実施機構整備の遅れ、財源不足、人材不足から達成するにいたらず、特に黒人への富の再配分の実施は遅れ、失業は増大し、社会犯罪は激化した。このことが先進諸国からの投資や、企業進出を妨げる要因となっている。このような状況から黒人の新政権への不満が高まることになった。
その後、ターボ・ムベキが新大統領に就任した後も状況は変わらず、失業率は3割を超え、犯罪率も高く、またエイズが蔓延している。
現在では、多くの白人たちがこの国を離れ、残された人々は混乱の中で暮らしている。美辞麗句が散りばめられたこの運動は皮肉にも国民の幸福には繋がってはいない。

逆差別現象等

アパルトヘイト時代に、劣悪な環境下で充分な教育の機会にも恵まれなかった大多数の黒人は、未だ貧困層から脱却出来ないものの、特権を得た一部の黒人による逆差別現象も生じ始めてきている。一部の金融機関では、黒人に融資する場合の利息が3%に過ぎない一方、白人に対しては15%、アジア系に至っては28%もの高利を堂々と行なっているが、黒人による経済支配は極めて小規模であるため、この問題が社会問題としてクローズアップされることも無い。

アパルトヘイトに反対するアーティストたち

1985年、英米のロックソウルジャズ等のスター約50名による「アパルトヘイトに反対するアーティストたち」('''')の「サン・シティ」というシングルが発売された。折からのチャリティー・ブームに乗った企画であったが、リベラルな内容ゆえにアメリカの保守的な地方でのオンエアは控えめであった。ビルボードでは最高38位を記録している。
参加者はスティーヴ・ヴァン・ザント(提唱者、Eストリートバンドメンバー)、マイルス・デイヴィス、ホール&オーツ、パット・ベネター、ブルース・スプリングスティーン、デヴィッド・ラフィン、エディ・ケンドリックス、ピーター・ギャレットボノアフリカ・バンバータボブ・ディランRUN D.M.C.、ノナ・ヘンドリックス、キース・リチャーズロン・ウッド、グランドマスター・メリー・メル、ルー・リードリンゴ・スターザック・スターキー等。
サン・シティとは白人居住区域にあった白人専用多目的施設の名称。高額な出演ギャラにてコンサートを行なうアーティストもおり、この企画に参加したアーティスト達は「I Ain't Gonna Play SUN CITY(サンシティなんかで演奏するもんか!)」と声高に唄った。黒人アーティストのレイ・チャールズやオージェイズも出演したことがある。
南ア人では、有名なジャズピアニスト、アブドゥラ・イブラハム(ダラー・ブランド)がいる。2005年10月、 "Abudullah Ibrahim: A Struggle for Love" という、ドイツ製作のドキュメンタリーフィルムが、バンクーバー映画祭にて上映された。
日本では、THE BLUE HEARTS1989年「青空」をリリースした。 爆風スランプも現地でliveを行った。

有色人種に対する例外的な扱い

この政策で、南アフリカにとって大きな貿易相手でもある日本人は「名誉白人(Honorary Whites)」として制度上の差別待遇を免ぜられた(→名誉人種)。のちには韓国人なども同様の扱いを受けた。正式な国交があった中華民国人は、名誉白人ではなく正式に白人として扱われた。又、アメリカ出身の黒人(アフリカ系アメリカ人)も、しばしば白人と同等の地位を認められていた。
19世紀ゴールドラッシュでやってきた中国人の子孫は有色人種として扱われた。中華料理店は白人専用とされたが、中華料理店の従業員および主な顧客層である中国人の子孫、中華民国人も排除されかねないため、中国人の子孫も中華料理店に限っては名誉白人として扱われた。
1987年、国際社会がアパルトヘイトに反対して、文化交流を禁止し、経済制裁に動くなかで、日本は逆に、南アフリカの最大の貿易相手国(ドルベースの貿易額基準)となり、翌1988年2月5日国連反アパルトヘイト特別委員会のガルバ委員長はこれに遺憾の意を表明(ガルバ声明)、さらには国連総会では日本に対する非難決議が採決された。

関連作品

  • 映画『遠い夜明け』(原題『Cry Freedom』)1987年、反アパルトヘイト学生運動の指導者、スティーヴ・ビコの伝記を映画化
  • 映画『ワールド・アパート』(原題『A WORLD APART』)1988年
  • 映画『サラフィナの声』(原題『Voices of Sarafina!』)1988年
  • 映画『白く渇いた季節』(原題『A Dry White Season』)1989年
  • 映画『リーサル・ウェポン2/炎の約束』(原題『Lethal Weapon 2』)1989年
  • 『青空』ザ・ブルーハーツ
  • ミュージカル「サラフィナ!」
  • 映画『イン・マイ・カントリー』(原題『In My Country』)2004年
  • 映画『輝く夜明けに向かって』(原題『CATCH A FIRE』)2007年
  • 映画『ツォツィ』(原題『TSOTSI』)2007年
  • 映画『マンデラの名もなき看守』(原題『GOODBYE BAFANA』)2007年

関連項目

外部リンク

  • (動画。投稿日: 2006年8月27日。残酷な場面が含まれているので視聴に注意)
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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
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